1月に北海道でしばらく、学びの時を過ごしてきました。
とても実り多き一時だったので、その時のことはまたゆっくり書きたいと思います。
北海道で学生時代を過ごした私、北海道に生まれ育った夫。共にクラーク博士の「boys be ambitious!」の精神の元で学び、7年前岡山に移住し、農業を始めました。
このクラーク博士の言葉の意味について、最近記事に取り上げられていました。
「金銭や私利私欲や人が名声と呼ぶようなはかないものに対してではなく、知識や正義や人々の向上のために、そして人としてのあるべき究極の姿に到達できるように、青年よ、大志を抱け」と、その真意が解説されています。
これを読んだ時、農のあるべき姿とは、どういうものだろうか、と考えてみました。
昔は、多くの人が自分の食べるものは自分で作っていましたが、今は多くの人が会社で仕事をして、それで得たお金で食べるものを買う生活になっています。生産者と消費者という言葉が生まれ、農業は生活の一部から、産業に変わってしまいました。産業になった農業は、家族が食べるための作物を育てるということから、効率よく、より収量多く作物を生産することに変わっていきました。
私たちは、農業とは何か、作物を作るとはどういうことか、その収穫物を食べるとはどういうことか・・・農と食、生き方について、岡山で7年、自然と向き合いながら考えてきました。
自分たちが食べたいと思えるものを追求していくと、もっとより自然に近い形で作物を育てたいと思い、それを実践していくと、効率や多収量という視点は存在しませんでした。でも、自然に最も近い状態で作物を育てることは、作物にとっても人間にとっても最も負荷の少ないもののはず、まだ見えていないことがあるのだろうな、、、と考えていました。
そんな時、今までの自然との向き合い方、自然の見方を考えた時、一冊の本が私に新たな風を吹かせてくれました。
以下、その本の「自然と合一すること」の中の一部です。
『自然は分解してみてはならない。分解した瞬間から部分はもう部分ではなく、全体はもう全体ではない。部分を寄せ集めたものは全部であり、全体とは異なる。「全部」は数学的形式の世界であり、「全体」は生きた内実のある世界を表現する。自然に即する農業は生きた世界であって、形式の世界ではない。
作物を作る、作物が生長する要素、生産手段は何かと考えた瞬間から、人はその作物の全体の姿を見失っていく。一つの作物を作るためには、人はまず一つの作物が地上に生えている真の意味を理解し、作る目的は作物との一体観にあることをまずはっきりと把握していなければならない。』
これを読んだ時、今までの自然との向き合い方は、自分の考えを押し付けたものではなかったか、自己満足ではなかったか・・・色々と見直すきかっけになりました。
少しずつ春に向けて準備を始めたいと思います。
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